生きることは忘れること

世界はメタデータとともに。

ブログはじめました。

私の頭の中はとっ散らかっていていつも何かを考えている。なぜ散らかっているというのかと言えば、何かを考えていながら何を考えているのかさっぱり分かっていないというところにある。そして、どうもずっと同じところをぐるぐる回っているだけなのではないかという気持ちにもなる。どうせ考えるなら数学の問題でも考えておけば良いのに、そうはしないで、何やら訳の分からないことを考えているというあたりがどうにもどうしようもない感じがする。

ところで同じところをぐるぐる回っているだけと書いたが、実のところこれは怪しい。短いスパンで見れば確かにどうやらそのようにも見えるのだが、長いスパンで見ると、例えば1年前あるいは2年前に何を考えていたか、微かな記憶を掘り起こしてみれば今とは違うことも考えていたように思う。

ここまで書いてきたが、私の部屋は散らかっているという事実から考えるに、そうすると私の頭の中が散らかっているという冒頭の言からしてその妥当性は疑わしいのである。そもそも他人の頭の中を覗くことはできないし、散らかっているかどうかは多分に相対的な要素を含むであろうから、この主張には無理があるというか、そもそも言葉遊びに過ぎないという言い方もできそうだ。

思考の内容は外部から観測できないが、私が今書いている文章は、これを公開することでどうやら他人に観測されることができるらしい。文章に限らず何であれ表現というのは、頭の中を他人に見せるという趣がある。「表現する」を英語にすると“express”だ。

表現の中でもアニメや小説なんかの物語の場合にフォーカスしてみると、同人誌なんかだと頭の中をかなりそのまま出しているところがありこれは別にするとして、商業作品の場合はかなり計算が入っているところがあって、そのままというよりはちょっと加工したという感もある。

実際のところ、私としては、この手の創作を楽しむときは、その物語自体だけでなく、その作品を構成する要素、作者が作り込んだ細かい仕掛けにふと気付くような、あるいは個々の表現についてそれがどういう仕掛けであるのか探るような、あるいは創作における要素の技術的意味付けをリバースエンジニアリングするような、そんなことが結構好きだったりする。まあ、これが過ぎると気付いたら作者の意図を創作していたりすることになっていたりしそうだけれど…。

そういう、綿密に考えて作られた巨大なシステムみたいなものは大好きだ。鉄道の中でも、ダイヤや信号や配線やサインなんかに興味を持っているのはそのあたりの背景があるかもしれない。法律なんかも似たような要素があるような気がする。

そして、当然クリエイターは自分の好きな作品の自分の好きな要素に影響を受ける。そして、「自分も作ってみたい」などと思ったりする。うらら迷路帖じゃない方の「かなえたい、夢がある!」ってそういうことじゃないかと思う。

表現というともう一つは、ある者が相当の判断の上に取った言動や行為について、それをもって表現だとする見方、そんなことをよくしている。行為と書いたけれど、不作為、つまり意図して何もしないことも含めている。個人に限らず法人についても考えてみると、当然法人の言動はすべからくそういった判断の上に載っているというのが外部からの通常の適切な解釈になるだろう。問い合わせフォームに性別欄があるのを見たときに微妙な気持ちになる、これが例として適切かどうかはよくわからないが、そういうようなことだ。まあ、逆に、何も知らないで何も考えないで適当にやっていることについて、そういう出力をもって表現とみなして、それをして糾弾の糧にする、なんてこともやっちゃっているわけだが…。

セマンティック(意味論)・ウェブという言葉がある。ウェブは情報交換の技術だから当然そこに意味論が載ってくるわけだが、これを自然言語だけでなく機械可読な形式でも表現しようというのがその大まかな概念である。おそらく多くの読者がこの文章を読むために使っているWebブラウザというのは、HTMLのデータを視覚表現にマッピングするというのがその機能の基本である。ということは、作者がデータを作るとき、Webブラウザに意図する視覚表現を出力させることを目的とするならば、そのマッピングを逆に辿ってデータを作れば足りるということになる。ラーメン屋の食券みたいなもので、それがメニュー名の書いていない色付き札であろうがなんであろうが構わないのだ。データを意味論が機械可読であるようにするというのは、このことからの転換である。機械がデータを読みそれを人間が理解できる形に変換するというのは変わらないけれど、必要に応じていろいろな形に変換することができる、ということだ。視覚表現が適さない読者がいても、機械が、データを適切な形式での表現に変換することができる。データを機械可読にするということの価値はこれだけではないし、むしろ他の側面から語られることも多いけれど、これには大きな意味があると、私は思うのだ。