創作とコンピュータ、時々アドビ
創作という営みはコンピュータがなくてもできるものである。コンピュータが著しく進化したこの時代、いまや人間は何をするにしてもコンピュータであるところのスマートフォンを使って目的の達成を見るというあり方が普通になっているのだから、創作にコンピュータが使われたって別におかしいことは何もない。しかしながら、創作というありようを考えるならば、「なぜコンピュータを使うのか」ということを、少しは考えてもいいのではないかという気持ちもある。これって別の言い方をすると、「創作にコンピュータを使うことで何が切り捨てられるのか」ということかもしれない。
たとえばこうやって文章を書いている。文章をコンピュータで書くということに大きな意味があるということは、うちの教員がよく語っている1ところである。実際、私の場合でも、タイプした文字の半分くらいは直後の書き直しによって最終的な文章に現れずに消えていく、とか、思いついたことを書き下していくというスタイルで書き、すると頭の中に湧いてきた断片の収まりよい場所がいまカーソルのある場所であるなんてことは全然ないので、結果常に文章の流れがよくなるようにあっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら書いている、とか。要するに手書きで文章が書けない体になってしまったという話なのであるが…。
読み書きということであれば、活字中毒の人間が読書ではなくTwitterをして満足する2というのはよくある笑えない笑い話だが、似たような話として、頭の中の思考がツイートのフォーマットになるというのがある。言語が思考を規定するのだ、とはいうが、もっといえば、自分のアウトプットが自分の思考に影響する、ということが起きるのである。するとやはり、アウトプットの最たるものである創作をどうやってするのか、ということは、回り回ってどういう自分が作られるのか、ということに繋がっている、という重大なことがらであるといえることになる。
ウェブデザインとか、UIデザインとか、そういうのはコンピュータをフィールドにする創作である。あるいは、ニコニコ動画、pixiv、なろう、そうやってコンピュータの上に創作物のプラットフォームが構築されている。よく言われることだが、インターネットがあったから生まれてきた創作というのが、どうやらたくさんある。コンピュータが創作に何をもたらしたか、という問い方をすれば、本当にたくさん、と答えるしかないだろう。
しかし、創作の過程というのは結局基本的には個人的な営みだから、こういうことは背景事情に過ぎないのである。結局、コンピュータで創作するのは、私にはこれしかないからだ、私にはこれしか方法を思いつかなかったからだ、私の場合は、と、そういう結論になってしまうのかもしれない。頭に問いの形を書いたが、対応する結びには、答えは個々人各々自らの中に見出される、と書くほかに安全に着地できそうなところがない。そうしてここにまとまりのない文章が完成という具合である。
そもそも私がグラフィックデザインと関わることになったのはどこからだったのか。そう、入口はコンピュータだったはずだ。それでは、私が「創作」とか「表現」ということばを気にするようになったのはいつからだったろうか。
というか、その、Creative Suiteの起動頻度…。