生きることは忘れること

私の創作・表現活動/大学のサークルについて

いろいろと書きたいこと/書けること/書くべきことはあると思うのだが、ひとまず個人的な体験を記すのがよいのであろう。

私は文章を書いたり、プログラムを書いたり、グラフィックデザインをしたり、事務やロジを回したり、ちょっとだけ絵を描いたりという人間である。個人サークルとしての同人活動では、(まともに新刊を出したのは)以下のものが唯一である。

【サンプル公開】9/22サンフェス!8で頒布予定の久石奏中心考察本(タイトル検討中)のサンプルを公開します。久石奏中心とか言いつつ2枚目ほとんど黄前久美子やんけ。B5コピー本、12ページ程度を予定。予価200円。 https://t.co/Sv6oRzcE1n pic.twitter.com/sVFlhTdMgH

— 竹麻呂 (@Takemaro_001) September 20, 2019

このときは16ページのコピ本で、Twilogによれば朝7時に原稿を上げて11時からのイベントに参加したらしい。大学の夏休みだったので時間はあったのだが、全然考えがまとまらずに超限界進行になってしまった。まあ、中高時代に部誌やらプリントの折り込みをたくさんやった経験はあって数十部は単純な量としては物の数ではないし、そのほか移動時間などなども考慮して間に合うはずと思った時間に切り上げて実際間に合ったので、結果オーライといえば結果オーライなのだが、こういうことはすべきではない。読者は反面教師として参考にされたい。まあ、そんなこんなでいろいろと苦労はあるが、オンリーイベントという場で自身の書いたものを物理的な形で届けることができたのは他に代えがたい体験であった。

そのほかコミックアカデミー(コミアカ)や東京大学きらら同好会(きら同)の合同誌なんかに寄稿はしてきている。合同誌への寄稿は、まず書きたいこととテーマや分量が合わなければならないという大前提があるが、それをクリアしている状況であれば良い選択肢である。組版・印刷・搬入・売り子などなどのロジまわりの負担を分担できるからである。個人サークルの場合、特に即売会当日は、自分ひとりではサークルスペースに縛り付けられてせっかくのイベントを回ることができなくなってしまう。売り子を頼めばいいのだが、同人に理解があり信頼できる人(で、かつ同じイベントでサークル参加していない人)という条件は意外と難しいものである。合同誌であればこのあたりを分担して両立させることができる。そもそも同人即売会の出展者のことを「サークル」と呼ぶが、それはほんらい同好の士が集まった団体のことを意味するのであって、その意味がどこまで歴史的に正統な由来かはさておき、同人作品の制作形態として十分に目を向ける価値がある。

合同誌の難点は、複数人が関わるので人間関係にまつわるトラブルを誘発しうることである。締切や金の問題を拗らせてTwitterを賑わわせる騒動は枚挙に暇がない。特にTwiplaなんかで募集して見ず知らずの人間が寄稿するタイプのものは鬼門で、主催に一定の腕力がないとけっこうな確率で破綻する。このあたりのことを考えると大学のサークルというのは恵まれた環境で、1回限りの集まりではなく継続的に活動するものであるから一定の人間関係が構築されている(はずである)し、(インカレサークルの場合もあるが基本は)同じ大学に所属する者どうしであるからその点において同質性の高い集団となっている。そして、もちろんケースによるが、サークル外の人間関係だったりネームバリューだったりで一定の部数が期待できるから、予測と管理を間違えなければ金銭的に大きな事故にはならない(規模が拡大しすぎるとリスクも拡大することにはなるが。どこかのサークルのように)。大学における学生の活動としての環境(いわゆる部室棟など)を利用できるケースもあるだろう。整理してみると非常に得なことが多いように思われる。

さて本稿のテーマは「創作・表現」活動とした。いわゆる作品と言えるような独立した形で世に出したものは、ブログとかネット上で公開したものを入れればまだあるが、本稿で特筆すべきものはここまででだいたい挙げたところだ(レポートや論文なんかも創作・表現ではあるがちょっと話が違ってくるのでさすがにそこまで言及はしない)。一方、サークルの構成員としての活動も私の創作・表現活動の一部である。コミアカを例に挙げれば、ビラや立て看のデザイン、各種事務作業(学園祭の出展手続きや参加サークルの受付・配置といったもの)、Webページの更新、クライシスレスポンス(普通のサークル活動で必要になることはめったにないが、2020年3月にはそれが訪れた)、などなどをやっていた。あるいは学部1年生のときにはクラス(理ロシ)の一員として学園祭でデザインだの当日の運用の構築だの好き勝手に首を突っ込んでいた。リローシャチャンネルというのもあった(何本かは私が編集をやった)。団体というのは回していくためにいろいろなタスクをこなさなければならず、そして私は最初に書いたようにいろいろ手を付けている人間であるので(まあどっちつかずの中途半端という言い方もできるが)、何でも屋として何となく必要とされていそうなところに入る習性がある。作品の作者として名前の出るようなことでなくても作品が世に出るために必要な仕事はたくさんあって、個人であればそれもすべて一人でやらなければならないが、サークルでは得意なこと・苦手なことを分担することができる。名前を出して作品を作らなくてもそれは立派な貢献であると私は思う。