生きることは忘れること

渋谷という場所

ときおり渋谷を歩き回っている。それは工事を眺めるのが楽しいからで、とくに駒場に通っていたころは通り道なのでしょっちゅう変化を追っていた。写真もたくさん撮っていた。

引っ越して渋谷を通る機会もいくぶん減ったが、それでもたまには近くに用事ができることがあったりして、変化の速さに驚きながらやっぱり歩き回っている。

この間はShibuya Sakura Stageというのが爆誕していた。渋谷駅の南西側で再開発をしていた桜 丘口地区にできた施設だ。道路が交通開放され、そのタイミングで跨線橋など歩行者動線も供用開始されたようだが、テナントはまだ入っておらず、見物客がちらほらと彷徨っているという独特の光景が展開されていた。デジタルサイネージにはTwitter映えしそうな謎の映像が映し出されており、あまりにもTwitter映えしそうで見とれてしまい写真を撮り損ねてしまった。華々しくオープンを迎えた渋谷スクランブルスクエアなんかとはどうにも対比的な印象だった。夜に訪れたのだが、照明は綺麗だった。坂道の迫る地形に沿って展開された歩行者動線はやや技巧的なきらいもあるものの、工夫が凝らされた見所のあるものだった。ただただ人がまばらで、しかし単にまばらなのではなく好奇心で寄ってきた見物客が歩き回っているのが奇妙だった。自分もそのひとりなのだが。どこにも繋がっていない地下がなぜか入れるようになっていて、行き止まりに出くわした人々が戸惑った顔で行き来していた。

センター街、坂を上ってハンズへ買い出し、ドンキへ買い出し、シェーキーズで打ち上げ、スイパラで打ち上げ。

HUMAXシネマで観たリズと青い鳥。あれは何周目だったか。

変わりゆく駅、地図上で圧倒的な存在感を示す巨大な山手線ホーム。それは100年に1度の大工事で現れた新たな公共空間で、システマティックな都市の極致だ。だがその周りに顕現した巨大なビルたちは、たしかに視覚的にも空間的にもさまざま工夫が施されているが、しかし私にとってはぽっかりと抜けた隙間に過ぎないように感じられる。

※これは今の渋谷に対する批判というよりは、私が私自身を省みるための文章です。