生きることは忘れること

東海道新幹線

今日昨日1は東海道新幹線に乗った。毎時最大15本を走らせる巨大かつ稀有な高速鉄道システムとして、ダイヤとか運行管理システムとか趣味的には非常に興味深い対象である。ただ公共交通という存在としての位置付けから苦言を呈するとすれば、トラブルが生じたときの対応は正直どうかと思う。まあそもそも東京~新大阪の500kmの間に1323人×約30本×2=8万人の乗客が線路上に存在しており、1時間あたり1323人×12本=1万5000人の乗客が駅をめがけてやってくる、という時点で取れる受け身もクソもないというのはひとつの正論ではある。断面の輸送量や瞬間の線内旅客数の規模が大きくなるとコントロール不能になるのは通勤鉄道も似た事情を抱えているが、いかんせん駅間も全長も長く時定数が長い東海道新幹線は相当な苦しさを抱えており、巨大システムのあげる悲鳴といった様相だ。しかし20年前の東海豪雨に始まり、ここ10年くらいでも運転見合わせのために大量の列車が途中で足止めを食らって終点の到着は翌朝、という事例は何例かあったように記憶している。直近ではこの夏がそうであった(この夏のケースは計画運休した翌日に再開した後の出来事だったから不運ではあったのだが)。そこでの乗客の安全への懸念は決して無視できないはずだ。まともな処方箋が編み出されることを願ってやまない。

ところで私自身としては、東京駅のホームやらアイス(自販機になってそこまでスゴイカタイわけでもなくなったやつ)を食べるときやらは遠くに行く独特の感覚があるのだが、乗っている間は正直、えんえん淡々と走り続ける外界と隔離された空間なわけで、自分はシステムに組み込まれて輸送されている物体だなという気分になる。都市鉄道だと(日常の通勤通学であっても一応)自分が移動しているという感覚が持てるのだが、東海道新幹線ではその主体性がどうも剥奪されている感覚が否めない。巨大なシステムがあったとき、人はそこに呑み込まれるほか術がないのかもしれない。


  1. 1. さすがにここまで経つとイカサマをするにも無理がある。