生きることは忘れること

#東大ぱてゼミ (3の1)

(講義前にブログを投稿する試み)

まあ予習曲は4曲なんだけど、余裕がないのでこれだけ。毎度そうだけど授業の流れとはあまり関係ない(と思われる)ことを書きます。。。

「愛したっていいじゃないか」は呼びかけの形をしている。「愛したっていうのですか」も呼びかけの形をしている。これは会話というか、二の対立する立場が互いに述べているのだろう。「君」「キミ」「アタシ」は、その二を具体的に述べたものだ。

じゃあ「殺したっていいじゃないか」はなんだろう。なんだろうというか、対立のたぐいを想定するのなら、どちら側なのだろう、ということだ。でも、そんなことはどうだっていいのだ、と思う。

この歌詞には繰り返しがある。で、そのなかで「愛したっていいじゃないか」からはじまるフレーズは、「殺したっていいじゃないか」の前後両方にまったく同じに繰り返されている。そこでは、「縛り 誰も 触れないように」といっている。それはきっと何か狂って曲がっていて、それでこれを別のところからみたのが「しがみついて藻掻くこと」なのだろう。そして「愛したっていうのですか/しがみついて藻掻くことを」といわれても、まえと同じように「愛したっていいじゃないか/縛り 誰も 触れないように」とかえす、そういうつくりになっている。

だけどそれだけではないのだ。「愛したっていうのですか」のすぐ後には「殺したっていいじゃないか」がある。「殺したっていいじゃないか」と、そういわれてもなおはじめと同じことをいうのだ。そういう強い言葉があれどなお、この愛は同じままであるのだ、ということだ。それでもって、何をいいたいかというと、死というものを持ち出してきてそれと愛と比較して愛の強さというか何かを示そうとしている、という構造に着目している。死はつごうよく持ち出されてきただけなのだ。死なんてどうでもいいくらいになる、そんな何かが表現されているのだ。そういう構造は、たぶんありふれているんだけど、それでも刺さるものは刺さるのですよ私に。

ちなみに「殺したっていいじゃないか/キミが嫌うアタシなんて」というときに、これが誰が誰を殺すといっているのかは(そして自殺を想像させるけどそうであろうとなかろうと)関係なくて、なぜならどちらにせよいっぽうが不在になった時点でその愛は破綻するからだ。変質するからだ。そうである以上この言葉を受けるものが受ける重さはなんにせよかわらないからだ。

そして歌詞は「これも運命じゃないか/消える 消える とある愛世」で終わる。どっちにしろ消えるのだ。消えるのが何なのかよくわからないけれど、関係の変質がそこにあることだけはうかがえる。

???「すべての音楽は、恋から始まるからです!愛と死は、音楽にとって永遠のテーマ!すべての曲はそのためにあると言っても過言ではないのですよ!」

— 竹麻呂 (@Takemaro_001) 2016年6月17日