生きることは忘れること

#東大ぱてゼミ (2)

同人即売会という空間には、明確に画された区別が存在する。すなわち、机のこちら側と向こう側である。そして私はずっと、机のこちら側から向こう側をみて、憧れのような嫉妬のような、そういう感情を抱きながらすごしてきた。なんというか、ただ「机の向こう側に行きたい」というのとはちょっと違って、なんと形容したらよいのか、ある種の濁ったというか、本質的には、自分への焦燥感というか怒りというか、哀しさというか諦めというか、そういうのだ。

どこから書こうかと思ったけれど、やっぱりここから始めるしかないだろう。高2の時のこと、文化祭実行委員会の広報担当で、パンフレットとかウェブサイトとかのデザインをする仕事だったのだが、何もかもを求めて、スケジュールを潰して、それでどうしようもなく辛い思いをした、ということがあった(蛇足ながらついでに書いておくと、いろんなひとに迷惑をかけたけれど、いろんなひとにたすけてもらったし、成果物はそうしたひとたちの成果物でもあるので、それを否定することまではしたくない、とも思っている)。その翌年の高3では、私の学校では学年で班活動をするのだけれど、そこでは広報というかデザイナーの仕事はしつつも、メインとしては副班長的なポジションで、全体の運営・調整をやっていた。

いまはコミックアカデミーに所属している。同人即売会を開催・運営するサークルだ。そこには、高校の時の経験から私の中に居着いている、「自分にはそういう運営みたいなある種裏方の役回りが向いている」という自己定義がある。もちろん「場を作る」ということはそれはそれで表現行為のひとつであるし、それを否定するつもりもないのだけれど、でも、やっぱり「つくりたい」という思いはたしかにそこにあるのにそれが実現できていないという現状認識があって、それでもなおそういう創作のかかわることをやっているというようなわけで、どうも素直にこれが自分のアイデンティティだみたいにはいえないというところがある。

いま、実現「できていない」と書いた。創作ってできるできないの問題ではなくてやるやらないの問題じゃないか、小さな一歩を積み重ねていくものなんだからその一歩をいまはじめればいいじゃないか、という話だとも思うのだが、それでも、そういう感覚があるのだ。もっというと、クリエイターって息をするように創作をしているみたいなところがあるじゃないですか(もちろんそれはいとも簡単にということではなくて血反吐を吐きながら息をしているような)、たとえば、ステラのまほうで関あやめちゃんの語っているような。それで翻って私はどうだろうかと考えてみると、いまの私はぜんぜんそんなではないのだ。べつに創作がそんなんで評価されるわけはなくてなんてことはわかっているのだけれど…、そうじゃなくて、何年もずっと同じ場所にいる、ありたい姿にあれない、もっというと、ありたい姿であることができなかった、そんなもどかしさというか焦りというかふがいなさというか、そんな感情から逃れられないでいるのだ。

ぱてさんが「この中から何人のボカロPが生まれるかな?」といってわたしの目を覗き込んできたとき、わたしはどんな顔をしていただろうか