生きることは忘れること

エロマンガ先生

「この作品のここが好きです」っていうのがスタート地点な気がする。

アニメについては日々のツイートでときどき萌えを漏出させていたけれど、紙媒体についてはあまりTwitterでは言及していなかったし、せっかくの機会なのでちょっと試みてみようと思う。(ところで「萌え」という語あるいは概念、あまり実感として理解していない気持ちがある)

(以下、当然にネタバレが含まれます)

アニメにはアニメの、小説には小説の、それぞれの特性があるわけで、したがって同じ作品のメディアミックス展開と言ってもそのまま原作を対象媒体にマッピングするのがベストになるなんてことはあまりなく、その帰結として原作のセリフやエピソードが削られたりすることもままあるのである。私の場合これまで基本的にアニメから入っているのでそういったことに特別の感情を抱いたことはないけれど、あれ、これってアニメきっかけで原作を買った作品の2期を見たことが一度もないということでは…(そもそも原作を買った作品で放映から2期が来るほど経っている作品はがっこうぐらししかない…)

(繰り返しますと、以下、ネタバレが含まれます)

2巻90ページから92ページのとこの紗霧がかわいい。

ええと、ここはアニメだと5話に相当する部分で、エロマンガ先生がマサムネにぱんつを見せているエルフちゃんの絵を見せた後、マサムネがそれを自分の作品に出すことを決めたところ。アニメではするすると進むんだけど、原作ではここでエロマンガ先生の絵を見てインスピレーションの湧いたマサムネが我を忘れて脳内に作品世界を再生するシーンがあって、それで反省するマサムネをよそに紗霧が「ふふ」と笑う、ここが良い。とても良い。


ここで紗霧は「ふんわりと」微笑んだと描写されている。この表現が、なんというか、独特な空気を作り出して、良いというか、やられる。ちょっと技術的な分析をしてみると、「ふんわり」という語は空間的な広がりがイメージされるので、その感情がまわりの空間全体に満ちているような、そんな感覚が想起されるのだろう。

4巻ラスト(282ページ)の紗霧もかわいい。ここでも「ふんわり」という表現が使われている。

4巻は好きなシーンが多くて、どの巻が好きかと問われたら強いて選ぶならこの巻というくらい。ストーリーのまとまりも綺麗だと思うし、アニメはおおむね3巻までなので、人に薦められる巻だとも言えそう。まあ、私は1巻から読まないと気が済まないタイプだけど…。


書いたように、アニメにはアニメの特性があるので、別にアニメで描かれなかったからといってどうこうというわけではないというか、この手の作品は女の子をかわいく描くというのがひとつの重要な命題であるので、そうするとストーリーが同じでも描くべきシーンはずいぶん変わってきて当然だよなあと思う。

ちなみにアニメで描かれなかったシーンというと、3巻104ページ(9話序盤相当)、「毎晩電話してあげるから」も好き。


本当なら一番好きなところにも触れないといけないのだろうが、ちょっと逃げてそこはさて措くことにして。エロマンガ先生について触れたのでついでに過去のツイートを回収しておくことにしようと思う。

エロマンガ先生12話は「すっごく面白い駄作」だったのだろうか

— 竹麻呂 (@Takemaro_001) 2017年7月21日

この解釈はありだとは思うんだけど、どうもしっくりこない。「エロマンガフェスティバル」なんで、あれは「ハレ」だよなあという感じがする。なるほどそうすると最終回に相応しいし、これを入れてアニメのエロマンガ先生はひとつの作品だってところかな

— 竹麻呂 (@Takemaro_001) 2017年7月21日

これは原作を3巻まで読んだ段階のツイートだけど、こんな深読みをする必要はなくて、このサブタイトルは文字通りこのアニメが「フェスティバル」、つまり「お祭り」であることの表現だったんだ、と思っている。