生きることは忘れること

大学という不自由空間

大学は自由な場所、みたいな気分がある。

私の大学観、なんか知らないうち無意識の底でがっこうぐらしの影響を受けている気がする

— 竹麻呂 (@Takemaro_001) 2018年4月21日

実際、「リベラルアーツ」っていうわけなんだけど、この「リベラルアーツ」のリベラルが何かというと、奴隷からの自由だったわけである。別に東京大学強要学部が奴隷的なカリキュラムを課しているみたいな話をするつもりはなくて、話の流れ的には現代におけるリベラルアーツみたいな話に進んでいくわけなんですが、今日しゃべりたいのはそこではないのでした。

何を書こうとしているかというと、「評価からの自由」という話で、この観点からすると大学という空間はおそろしいほどに評価で溢れているといえよう、と思うのです。成績とか授業評価アンケートとかいうのはまあもちろんあるけれど、そういうことではなくて。ところでこれって別に大学に特質的なことでもないやん、という話はあるんですが、でもやっぱり大学に関して自由ということばかり意識していたせいで、ちょっとこういう言い方をしてみるとこわいことに思えたのだ。

(それともうひとつ、大学における評価は、誰による誰へのものであってもそれをすること自体が原理的に否定されない、というところもあり、これは言い換えると、どこまでいっても評価されることから逃げられない、ということになり、これもこれでこわいことであると思うのだ。え、いや、生きている限りそうであるというのは本来的には正しい在り方ではあるはずなのでは?こういう話をしているといったい私の志向する自由ってなんだろう、みたいな気持ちになってしまいますが。そして生きることってきびしいよね、という話になってしまう…)

ろくにまとまっていないまま書いてしまった。特にオチはありません。