#東大ぱてゼミ (1)
そもそもボカロはあまり嗜まないのでありますが、それはそうとして、たとえばアニメについてみると、私としては、アニメについて語るということには、苦手感というか忌避感というか、そういうところがある。
— 竹麻呂 (@Takemaro_001) 2018年7月2日
それはこの間某怪文書に触発されて百合について長々ツイートしていたときに少し書いたことと似ているのだけれど、作品がそこにあるというときに、語ることによって、そこに言葉によって色がついていって、ちょっとずつ作品そのものから離れていく、とか、あるいは、(最初に視聴したときの)体験が汚れていく、とか、そういう気がするという感覚である。別の言い方をすると、作品を語るということ、あるいはもっと手前で作品を分析的にみる(よむ)ということが、作品を「消費」しているというような感覚がある。というか、「記憶を消してもう一度みたい」という作品があるひとは相当いると思うのだけれど、そうなると、繰り返し作品をみるというだけであってもそういえる要素があるかもしれない。(まあただ、それって、作品に対して私がその価値を毀損するような存在である、みたいなのが根底にあるのかもしれなくて、歪んでいると言われたらそうなのかもしれない) あるいは、「エモい」とか「尊い」ということば、これっていまのような感覚が背景にあったりしはしないだろうか、と思ったりもしている。
しかしながら、とはいってもけっきょく、気付いたらリズと青い鳥のことを考えたりしていて、(語るということを積極的にしないでも)私はそういうところからは逃げられないのだなあというところでもある(というかそもそも、私自身そういうありかたであるからこそ先に書いたような感覚があるのかもしれない)。
さて、それで、ぱてゼミというのはボーカロイド音楽を題材にして論を展開していくという話であって、それはつまりここまで述べてきたようなそれと、まあ相反するようなところがあるわけである。そういうわけでそこには、覚悟というか、諦めというか、これからさきの私のありかたがある程度の積極性を持って決定されるということの重みがあるのであるなあ、というようなところを考えていたのであった。